※銀×女医
どうしようもないほどに、人間だった。
嫌いな人間は助けたくない、誰を犠牲にしても大事な存在だけを護りたい。
自己の胸中にこんな醜い/けれども至極全うな、願い/あるいは欲望が眠っていたなどと、知るよしもなかった。
蛋白質の塊になった人間から流れる真っ赤な水溜まりに、少女は尻を浸していた。
纏わりつく生臭い空気に肩を震わせ、獣のような荒い吐息を漏らす。
そうして唐突に片手で握っていた小刀を放り投げた。
刃が石にでもぶつかったのだろう、がらん、と、思いの外大きな音をたて剥き出しの地面に転がった刀を意識の奥底へと押し込め、小柄な人影へ這いずり寄る。
刃物で斬られた。
殺されそうになった。
正当防衛だ。
ーーーーーーほんとうに?
ほんとうに、そうなのだろうか。
いのちをうばってはいけません、だれかをきずつけてはいけません、ひとをころしてはいけません、さつじんははんざいです。
ブラウン管の向こうで微笑むニュースキャスターの言葉がぐるぐると歪んで頭の中を駆け巡る。
スーツを着た女はやがてどこかの病院の先生になり、見覚えの有る同期となり、グニャリと歪んで顔のつぶれた母親になった。
おいしゃさんは、いのちをたすける、とうといしごとなのよ。
母さん、先生、×××、それは、自分の命を差し出してでも、することなのでしょうか。
騙され、踏まれ、殴られ、斬られてでも、自らの命を糧に、血を肉を贄にしてまで、己を害する相手を助けるのが、医者なのでしょうか。
そうではないのはわかっている、そんな人間ばかりではないこともまた、十分にわかっている。
どんな悪人だろうと死んで良い、助けなくて良い訳じゃないんだと言った、強くて優しいどこかの誰かには、なれなかった。
ただそれだけの、ありふれた話である。
お、起きたか。
居眠りなんて、やる気ねぇなぁ先生よぉ。
小指を鼻の穴に突っ込んだ男が、ジャンプ片手に備え付けのソファでぐたぐたと寛いでいる姿に、女は深い息を吐いた。
デジタル時計には、患者の途切れた夕刻の数字が並んでいる。
窓の外は雨、いっそ清々しいほどの曇天の下を色とりどりの傘が楽しげに泳いでいた。
何時から其処に。
そう尋ねる女に、銀色の髪をかき混ぜた男は気だるげな声で昼飯食いっぱぐれたじゃねーかとあくび混じりに愚痴を溢した。
テーブルに置かれたコップの底で、ピンク色の液体が乾いて斑な紋様を描いている。
ずいぶんと長い間、うたた寝をしていたようだ。
ぼんやりと霞みがかる思考をふるりと揺らし、女は己に掛けられていた白色の着流しを男へと投げる。
ありがとう、と。
言い終わるや否や、着流しの下から現れた二本の腕に正面から拘束された。
お前また寝てねぇだろ。
くぐもった囁きに大したことはないと応えれば、男の腕の力はいっそう強まった。
厚い胸元へと押し付けられた鼻先が、男の体温と臭いを敏感に察知する。
慣れ親しんだ、少し高めな温度と、甘い臭いに頭の芯がじわりと痺れる。
眠気を誘うあたたかなそれらに抗うよう女が身を捩れば、男は苛立ったように舌を打つ。
「意地張ってんじゃねーよ」
「張ってない」
「張ってる」
「張ってない」
「張ってる」
「張ってない」
だああぁチクショウ!
覚悟しろぐるあ、と一声吠えた男は着流しで女をぐるりと巻くと、肩へと担ぎ上げ診療中の看板を本日終了へと裏返し歩き始めた。
巨大な芋虫のような、米俵のような格好に下ろしてくれと懇願するものの、帰ってくるのは沈黙ばかり。
男は階段を上がり万事屋の扉を潜ると、敷きっぱなしの布団へ女を放り、着流しと白衣をひっぺがして掛布を被せた。
目を白黒させる女の横で、胡座の上に頬杖を付いた男は不機嫌そうに唇をへの字に曲げている。
オメーが倒れたら誰が面倒見んだよ、俺ぁ御免だからな。
ぽつりと呟かれた言葉に、女は苦く笑む。
なら放っておかれるわけか、酷い話だ。
揶揄うような声に、かわいくねぇ女、と。
吐き捨てる男の頬はどうしようもなく緩んでいる。
心地よいやり取りである。
やがて頭を撫で始めた男の手に、女はゆるりと瞼を下ろした。
逆らっても無駄であることは、長年の付き合いでわかりすぎるほどに解っている。
俺の看病出来る奴なんて、お前しかいねぇんだからよ。
穏やかな男の声に、女の意識がとけてゆく。
目覚めたら、夕飯を作ろう。
お帰りと言って、それから男の手当てをしなければ。
額に触れた柔らかな感触がいとおしかった。
【ぐんないベイベ】
誰かがいないと眠れない先生
先生の誰かになりたい銀ちゃん