生物委員会委員長の九十九十八先輩は忍術学園一諦めの早い忍たまと呼ばれている。
一か零、善か悪、有か無、美か醜、中庸という概念が抜け落ちてしまったような先輩の思考は、三年ろ組の二人組並みに迷子だ。
後輩にじゃれつかれれば物の数秒で逃げ出すことを諦め、同級生におかずを取られれば瞬きの間にどんな好物も諦める。
予算会議では戦う前に踵を返し山へ動物達の餌を狩りに行き、安藤先生の部屋に放ったカメムシの幸せを祈りながら達者でなと捕獲を断念した。
二者択一を常に直走る先輩の姿勢は、いつか自己保身の為裏切りを犯すのではないかと先生方に危惧されている。らしい。
忍者にとってどうなんだ、なんて言われる先輩だが、おれは絶対にそんなことはないと言い切る自信がある。
なぜなら先輩は、忍術学園が大好きで、おれ達を愛しているからだ。
愛しているなんて、大袈裟だなぁ。
困ったような笑みをこぼす雷蔵に唇を尖らせる。
信じてないなと怨めしげに呟くと、雷蔵の隣で春画の頁を捲っていた三郎が面倒くささを全面に押し出しながら溜息を吐いた。
「面と向かって言われた訳じゃないだろう」
愛してるなんて、と。
欠伸をかみ殺して春画を放り投げ(ばか、それはおれの秘蔵なんだぞ!!)、三郎の言葉をドヤ顔の兵助が継ぐ。
「つまり九十九先輩にとってのハチは、おれにとっての豆腐…こういうことだな」
「違うでしょ」
兵助はホント少し豆腐から離れなよ。
まったくもうと言いながらお茶を飲む勧右衛門に同意しつつ、内心ソレも良いなと思ってしまった。
兵助にとっての豆腐が、先輩にとってのおれ。
思わず熱くなった頬を冷ますためぱたぱたと手を振れば、そういえば、と三郎が切り出した。
「九十九先輩が戦ってる所、見たこと無いな」
そういえばおれも、おれも、と声があがる。
武道大会も欠席だし、強いのかな、そりゃ強いだろ、そうそう六年生だもの。
わいわいと花を咲かせる四人が、ぱっと此方を見る。
な、なんだよ。
余りの剣幕にどもりつつ答えると、九十九先輩と組んだこと有るの八だけじゃないかと三郎に詰め寄られた。
「強いのか」
「強いよ。凄く」
「そんなに凄いの?」
「どんな風に?」
「得物は?」
一遍に喋るなよ!
にじり寄ってくる四人から後退り、思いを巡らせる。
五年の始めに一度だけ組んだ実習は、何が何なのか理解する前に全てが終わっていた。
辺りに転がる人だった肉塊、鼻を突く生臭い異臭。
その日先輩がおれの命と引き替えに諦めたのは、その他大勢の命と任務達成だった。
何も持たず血の池に立ち尽くす先輩は、聞き慣れた口癖を言っておれを慰めた。
『まぁ、仕様が無いさ』
口布を引き下げた先輩は、頬に着く血糊もそのままにうっそりと笑った。
「見えなかった」
「は?」
「だーかーら、見えなかったんだよ」
そう、見えなかった。
周りをあっという間に囲まれ、品のない悪態を吐いた次の瞬間には既に生きている人間はおれと先輩の二人だけだった。
「と言うわけで、解らなかった」
「なにそれこわい」
うわぁと震える勧右衛門に、三郎がにやりと笑う。
雷蔵の顔なのに、全く違う人間に見えるから不思議だ。
「じゃあさ、今度の武道大会。九十九先輩引っ張り出そう」
「え…本気なの三郎」
「私はいつでも無敵に素敵で本気だよ雷蔵」
「無理だろ」
「乗り気じゃないな八」
「だって、」
半身ほど障子が開いて、渦中の九十九先輩が悪いなと言い、顔を覗かせる。
今までの会話も恐らく聞かれていたんだろうなぁ。
気配に気付けず悔しがる四人を余所に、気まずい気持ちで先輩を見る。
先輩は、まぁ仕様が無いさと困ったように眉を下げながら笑った。
「ジュンコとジュンイチが、揃って散歩に行ってしまったんだ。皆で集まって居たところ悪いのだけれど、捜すのを手伝ってくれ八左」
「はい!」
背筋を伸ばし、部屋の隅に立てかけた網を手に取る。
行きましょうと九十九先輩に声を掛けると、先輩は顎に手を当て何か考える仕草をして、好奇心いっぱいな眼をした四人へ握った拳を差し出した。
まさか殴られる…!?と肩を震わせた五年生に、先輩はふわりと微笑み拳を開いた。
「俺は、あまり稽古向きじゃないんだ」
だから武道大会には出られない、これで勘弁しておくれ。
もう一度微笑んだ先輩の掌には、先程開いた時には無かった色とりどりの飴玉が乗っていた。
簡単な奇術にきゃあきゃあと喜ぶ四人が憎らしい。
畜生あいつら狡いぞ。
おれだって先輩から飴を貰いたいのに。
流石に頬を膨らませることはしないが、悔しがっていると先輩が口へ一粒放り入れてくれた。
八左はいちごが好きだったよな。
そう笑んだ先輩に後光が見えた。
ああダメだ、好き過ぎて困る。