目の醒めるような戦働きをする在野の将が居るとの噂を耳にしたのは、小さな軍団を任されていた徐庶が失脚の憂き目を見る少し前のことであった。


乱世を終わらせると志を立てたは良いが、仕えた州が悪かった。腐敗した官僚は、徐庶の献策を悉く跳ね除け、最後には疎ましげに野へと放り出したのだ。汚い野良犬めと襟首をつまみ上げ棄てられた徐庶は、屈辱に唇を噛み締め街から逃げるより他なかった。なけなしの矜持が血涙を流した所で、私財すら奪われ文無しの在野となった己に出来ることなど何一つないのだ。
この先、どうすれば良いのだろうか。訪ねるべき人もなく、寄り添える仲間もなく、大それた望みばかりが大きくなっていく。ぐう、と鳴った腹に徐庶の眉尻が下がる。先ずは目先の飢えから満たさねばその先など訪れまいと財布を揺らすが、粗末な袋をひっくり返したところで塵一つ落ちてくることはない。とことん惨めであった。腹が減れば思考は益々悪いほうへ悪いほうへと転がってしまう。肉体よりも心の疲労が酷い。項垂れていた徐庶の目に、大柄な影が被る。
大丈夫か、あんた。
顔を上げることすら億劫であったが、気力を振り絞りどうにか淀んだ目を向けてみれば、そこに佇んでいたのは髪の先から指の先まで異様に白い男であった。徐庶の脳裏に、いつか耳にした噂話が甦る。目の覚めるような戦働きをする在野の将。夫婦剣を牙に黒山の軍団を蹴散らし、名だたる将を赤子のようにあしらう、主の無い狼。金色の瞳に見詰められ気が狂った者が居るとまで恐れられる輩が、徐庶を訝しげに眺めている。
空気を読まない腹の虫がくきゅうと媚びるような音を上げ、徐庶は恥ずかしさで焼け死ぬかと思うほどに顔を赤くした。情けない姿を晒す徐庶に、噂の将はからからと声を上げ、奢ってやるよと朗らかに笑った。弓なりになった金色が柔らかな光を湛えている。思わず見惚れてしまった。立ち尽くす徐庶の背を軽く叩き、狼と渾名される在野の将は己の名を口にした。


「珍しい名だな」
「異人なんてそんなもんだろう」


無感動にへえだのほおだのと適当な相槌を打つ白狼に小首を傾げ、湯気の立つ餃子へ恐る恐るかじりつく。舌を苛む熱さと滲み出る旨味にふるりと肩を揺らし、徐庶は静かに息を吐いた。空きっ腹に染みる温かな食事は、涙が出るほどに有り難いものだ。酒も肴も遠慮をするなと笑う白狼の杯へ、すまない馳走になると酒を注いだ。

腹も膨れて酒も進めば、互いの口も軽くなるものだ。あれやこれやと他愛の無い会話を交わしながら、徐庶は酒気に薄紅く色付いた白狼の頬を盗み見て噂の続きを思い出していた。白い狼は柔く壊れやすい女よりも、固く頑丈な男を好んで喰らうと言う、なんとも臀の寒くなる恐ろしい話である。膨れても尚引き締まった己が腹へ我知らず手をやり、胸中で固く頑丈な、と呟いた。何ともないような風であるが、もしや、貞操を狙われているのだろうか。食事の恩に託つけ同衾を求められてしまったら、どうすれば良いのだ。許してくれと言っても、もう食べてしまった後なのだから見逃しては貰えまい。小さくはない徐庶よりもさらに頭一つ抜き出た豪傑に力尽くで押さえられ、抵抗虚しくされるがまま女のように犯される。武骨な手が脚を割り、赤い唇の中に蠢く紅い舌が肌を。そんな卑猥な考えが頭を過ぎ、背筋を這い上った悪寒に白狼を見るも、件の狼は休み無く上機嫌に杯を空けるばかりである。
考えすぎだろうか、だとすれば、善意で奢ってくれた相手に対して己はなんて恩知らずなことを。
申し訳なさに身を縮ませ酒を舐める徐庶は、声に出さずまてよと一人ごちる。これは、一騎当千の白狼を味方に付ける、願ってもない好機なのではないだろうか。ふと浮かんでしまったその考えに、心の臓が厭な音を立てて騒ぎ出す。登用するのでもされるのでも良い、たった一人で戦局を引っくり返せる、武の才を持った無双の将を引き込むことができたなら、叶うわけがないと嘆いた願いにすら手が届くかもしれない。
からからに乾いた口を酒で湿らし、己が固く頑丈な雄であることを感謝した徐庶はきつく目蓋を閉じる。なに、少し我慢をすれば良いだけだ。同じ性に支配される屈辱も、味わうであろう痛みも、手に入るものの大きさに比べれば、なんと言うことはない。
そうと決めれば不思議と心が落ち着いたが、では誘いましょうとなるかどうかはまた別だった。何が一番恐ろしいか、貪り捨てられる喰われ損だけは避けねばなるまい。惹き付けて惹き付けて、己の味を求めて止まぬように白狼を虜にするのだ。とはいえ、女人とはまだしも、男相手の経験など皆無の己が、百戦錬磨の断袖相手にどこまで通用するのだろう。さっぱり見当がつかない、と徐庶は頭を抱えた。


「飲みすぎたのか」


確りしろと肩を揺らす手に、唇を歪める。お開きにするかと欠伸をする白狼に、やるしかないと小さく拳を握った。この千載一遇の機を逃せば、乱世に埋もれ、小役人程度にすらなれず朽ち果ててしまうだろう。やるしかない、こうするより他に道はないのだ。ずるりと鼻を啜り、涙を浮かべた瞳で白い狼へおもねる。居場所がないのだ、とこぼした声は、みっともないほどに震えていた。



【おやいぬこいぬわれもこう】