大分暖かくなってきて、日も長くなってきた。
来月にはこの国の一大イベント……女王の誕生祭と建国記念日があるとかで、街も少しずつその準備を始めているようだった。
稼ぎ時だなあ、と思いつつ、異国の青年……王倫も、仕入れた商品を綺麗に並べ直していた。
ふう、と一つ息を吐く。
すっかり陽は落ちて、昼間は賑わっていた店内も、今は自分以外誰もいない。
恐らくもう客入りもないだろうし、少し早いが店を閉めようか。
城で面倒を見てもらえているとは言え、妹とあまり長く離れているのも心配だし……
そう倫が考えていたときだった。
「倫」
静かな声で、名を呼ばれた。
店主さん、と呼ばれることの多い中、名を呼ぶのは専ら、彼が世話になっているディアロ城騎士団の関係者だ。
顔をそちらへ向ければ、白衣を纏った緑髪の男性が立っていた。
「ん、あー、医療部隊長さん?どうかしたのー?」
こんな時間に珍しいね、と倫は目を細める。
幼い騎士も多い医療部隊の部隊長……ジェイドは、あまり遅い時刻まで城を離れることがない。
まだ深夜というほどではないが、彼がこんな時刻に街にいるというのはなかなか珍しいということを、倫も知っていた。
「診察の帰りかなー?
あ、もしかして、医療部隊長さんも、我のところのお茶買ってくれる気になった?おすすめなのはね……」
ジェイドの返答を待たず、もう誰もいない店内でおすすめの茶葉を選ぼうとする倫。
その背を見つめていたジェイドはそっと息を吐いて……
「良いですよ、無理に明るく振る舞わずとも」
そう、声をかけた。
ぴたりと動きを止めた倫だったが、すぐにくるりと振り向いて、笑う。
「無理ってなんのこと?」
いきなりどうしたのー?
そう言って笑う倫だが、ジェイドは表情を変えず、じっと倫を見つめていた。
暫しにこにこと笑いながらそんな彼を見ていた倫だったが、やがて根負けしたように溜息を吐き出した。
「無駄だってことかぁ」
やれやれ、と首を振る倫だが、まだその顔には笑みが浮かんでいる。
ジェイドはそれを痛ましげに見つめた後、そっと息を吐いて、言った。
「あの日から、自棄になっているように見えましたから」
あの日、という言葉に倫の表情がほんの一瞬強張る。
図星か、と思いながらジェイドは眉を寄せた。
***
数日前。
深夜、と言って相違ない時刻に、彼は城へ戻ってきた。
ちょうど深夜の見回りをしていたジェイドが彼を見つけ、声をかけたのだが、それに応えることなく彼は部屋に戻って行こうとした。
その様子があまりにも異様で、何よりそのまま放っておいたら"最悪の事態"が起きそうで、ジェイドは彼の空いているその手を強引に掴んで、止めたのだ。
向けられたのは明確な殺気。
離せ、と唸る声はまるで獰猛な獣のそれのようだったが、ジェイドは退くことなくその手を掴んでいた。
離しそうにないと思ったのか自棄になったのか、倫は自身の表情の理由を荒れた口調で語った。
妹を僵尸にした日の記憶も、その日に抱いた思いも誓いも、……明らかになった真実も。
妹のためと思ってしてきたことは、全て誤りだった。
自分が冷静に判断できていれば、起こり得ないことだった。
優しい兄が好きだと言っていた妹に対する最低の裏切りだ。
馬鹿みたいだろ。
そう吐き捨てるように言った彼は、ジェイドの手を振り解くと、今度こそ自分の部屋に逃げ込んでいった。
その翌日、彼を気にかけていたジェイドが見たのは、いつも通りの彼の姿。
表向きは明るい異国の商店の店主という顔を騎士団でも保っているためだろう、彼の周りにはそれなりに人がいることが多かった。
それに、いつも通りに応対している彼の様子を見て、ジェイドは一人、顔を顰めていた。
その裏に隠した苦痛を感じ取ったアルにも言われた。
辛さを押し殺しているようだ、と。
恐らくなんとかしてあげて欲しいと言いにきたであろう麗花にもそっと白衣を引っ張られた。
使命感、とはまた少し違う。
ジェイド本人としても心配で、けれど人前で声をかけても上手くかわされることがわかっているからこうして彼の店まで訪ねてきたのだ。
***
まだ笑みを浮かべている倫の頬にジェイドはそっと触れる。
ぴくりと体を跳ねさせる倫を見つめ、ジェイドは言った。
「眠っていないでしょう、最近」
目元をそっと指先でなぞる。
金色の瞳を瞬かせた彼はへらりと笑って、肩をすくめた。
「元から睡眠は浅いし睡眠時間も短かったよ」
「…………」
誤魔化さないで、と、言わんばかりの視線を向けられて、倫はゆっくりと瞬く。
それから、小さく息を吐き出して……すっと、表情を消した。
「自棄、ね」
呟くようにそう言った彼は、小さく鼻を鳴らした。
そして口元に歪んだ笑みを浮かべながら、彼は言う。
「自棄にもなるさ。我がしていたことは全て無意味だった訳だし」
言ったろう?
そう言いながら、深く息を吐く。
そして、硬く拳を握りつつ、呟くように言った。
「麗花のため、麗花の仇……そう思って、何度も何度も罪を犯してきた。麗花(あのこ)が厭った父と同じように」
彼女を撫でて、抱きしめるために使っていた手は、今や血まみれだ。
妹のため。
妹を"殺した"犯人を殺すため。
そう思い、突き進んできた手は、すっかり穢れてしまった。
―― 妹を良く守ってあげるのですよ。
母の言葉を、思い出す。
彼女を守るために強くなろうと思った。
武術を極め、体術を極め、魔術を極めた。
妹を誰より近くで守るために、父の傀儡となったふりをした。
……それなのに。
一番大事な時には彼女の傍に居られなかった。
彼女の、一番の想いを察しきれなかった。
彼女は、優しい子だった。
父の傀儡として動く兄が傷つくことを恐れていた。
"私の知らない兄様にならないで"と、いつも彼女は言っていた。
彼女が願ったのは、兄の幸福と無事だけだった。
自由を奪われ、人形のように利用されようとした彼女が選んだ道は、酷く残酷で、悲しいものだった。
父の望む相手と婚姻し、子を孕み、産み育てたとして、その子もきっと、自分のような、兄のような道を歩むことになるのだ。
男として生まれたならば家を大きくするための手駒として。
女してと生まれたならば家を大きくするための人形として。
嫌だと思った。
嫌だと言いたかっただろう。
……けれどもし、そう言っていたならば。
優しい兄が自分のために手を血に染めることを、麗花は理解していて。
……そんなことは、絶対に起こしたくないと、優しい彼女は自ら命を絶ったのだ。
対不起(ごめんなさい)。
妹を、麗花を守れなかった。
それどころか、彼女の最期の願いすら、無視した行動をとってしまった。
「挙げ句、ただ我の幸福だけを祈って逝こうとした妹を、無理矢理我の術で繋ぎ止めた。人ならざるものとして、傍に置き続けた」
術を使って、彼女を僵尸にした。
ヒトではないものにして、自分の傍に置いた。
そうしてでも、つなぎとめておきたかった。
そうしてでも、傍に居たかった。
唯一無二の、宝物。
愛しい愛しい、かけがえのない家族。
けれどそれは間違いなく自分の我儘で。
麗花は、きっとそんなことを望んではいなかったのに。
自分のためとそう言って、手を血に汚す兄を、彼女はいったいどんな思いで見ていただろう。
「恨まれても、仕方ない」
倫はそう言って、俯いた。
吐き出す呼気は、震えていた。
「そう、思っているのですね」
静かな声で、ジェイドは言う。
彼の絶望の意味が正しく理解できた。
彼が此処まで悔いているのは、此処まで絶望しているのは、全て妹のためだ。
妹を想って取っていたつもりの行動が全て、妹の想いに反していた。
それを理解した彼は、何よりも……妹への懺悔の気持ちを強く感じて、押しつぶされそうになっているのだ。
「貴方は、優しい兄ですね」
自然と、そう零れた。
ジェイドにも、妹が居る。
自分ならば、彼と同じ行動がとれただろうか。
妹を殺されたとなった時、自分が手を汚す覚悟でその復讐を誓うことが出来ただろうか。
……きっと、できなかっただろう、と冷静に思う。
それが正しいか否かは別として、倫の愛情は本物だ。
しかし、ジェイドの言葉に倫は顔を歪めた。
「妹からしてみれば、良い兄なんかじゃないでしょ。僵尸となった今では、文句すら言えない」
彼女の魄を繋ぎとめた存在とはいえ、倫に使役された存在。
文句があったとしても言えなかろう。
「わかっているのに壊すことすらできないんだから、本当……ろくでもないな」
解放してほしいと思っているかもしれない。
壊してほしいと願っているかもしれない。
……そう思うのに、それを問えない。
彼女を壊すことなど、絶対にできない。
自分は残酷だ、と倫は自嘲気味に言った。
「妹のため、そう思った貴方の気持ちは間違ってはいないでしょう」
そこは否定しなくて良いはずだ。
ジェイドはそう言う。
俯いている倫に手を伸ばせば、彼はふいと顔をそむけた。
そして、吐き捨てるように言う。
「どうだか。……麗花からすれば、良い迷惑だっただろう。
麗花を殺した人間を赦すまいと思ったが、実際に赦されないのは取り返しのつかないことをした我だ」
確かに、彼女のためと思ってしていたのは間違いない。
愛しい妹を"殺した"人間に報いを。
そう思っていたのは、確かだ。
だが、それが勘違いと知っていたならば……嗚呼、どうだろう。
別の道は、選べていただろうか。
そんな想いが一層、倫の胸を締め付ける。
自分は、本当に勝手だと。
……自分は、赦されてはならないと。
そう思っているのだ。
ジェイドはそんな彼の感情が良く理解できた。
だからこそ必死に伝える。
「それはきっと、違いますよ。すぐに受け入れることはできないかもしれませんが……」
言葉を続けようとしていたジェイドははっとして、不意に後ろに飛び退いた。
刹那、ジェイドが居たその場所を、鋭く尖った義足の先が抉っていく。
その様を見て、倫は大きく目を見開いた。
「っ、麗花?」
倫とジェイドの間に立つのは、長い銀髪を揺らした少女。
他でもない、倫の妹……麗花だ。
「にいさまに、なにをしたの」
そう言いながら、麗花は二色の瞳でジェイドを見据えている。
明確な敵意を、殺意を灯した瞳で。
「にいさまをきずつけるなら、ゆるさない」
そう言いながら、麗花は札を構える。
戦闘の構えだ。
それを見てはっとした倫は慌てて麗花を止めた。
「……違うよ、麗花。彼は敵ではない」
倫はそっと麗花の肩に手を置いて、言った。
麗花は倫の方を見て、少し戸惑ったように言う。
「でも、にいさまがかなしいかおをしているから」
そう言いながら、麗花はそっと倫の頬に触れる。
冷たい手。
体温のないそれで自分の頬を撫でる妹を見て、倫は眉を下げた。
……あぁ、本当に。
この子は、変わらない。
優しくてかわいい、大切な妹だ。
その思いは、行動は、彼女本人の想いと思ってしまっても、良いだろうか。
「……麗花」
名を呼びながら、倫はそっと麗花を抱きしめた。
「大丈夫だよ、我は大丈夫」
倫がそういうのを聞いて、麗花がゆっくりと瞬いた。
「……兄様」
小さな声で兄を呼び、麗花はそっと倫の背に腕を回す。
「ごめんなさい」
詫びながら、彼女はぎゅうと兄を抱きしめた。
「……ごめんなさい、兄様」
そう詫びる麗花の瞳から涙が零れるのを、ジェイドは確かに見た。
翡翠の瞳を濡らし、兄に抱き着く彼女の表情が、感情が、作りものとは思えない。
「……倫、貴方の妹君が貴方のことを恨むはず、ありませんよ」
ジェイドはそう、小さく呟く。
確かに、倫の行動を彼女は悲しんだだろう。
けれど、怨むことはないはずだ。
倫が言うように、優しく兄想いの妹だというのなら、きっと。
彼女が悲しむのは、兄がそうして苦しんでいることを知っていたからだろう。
……自分のためと、一人辛く苦しい道を歩む兄を想ったからだろう。
そう思いながらジェイドはそっと、祈る。
―― どうか。
この優しく哀しい兄妹に幸福が訪れますように。
―― どうかどうかと、ただ願う ――
(赦されないのは我の方だ。
愛しい、かけがえのない妹を守れず、取り返しのつかないことをした)
(そんな優しい貴方の妹が、貴方が永遠の闇に囚われることを願うはずがない。
そのことに気づいてくれれば良いのですが…)