人生、良くも悪くもタイミングで色々決まることだってあったりして
その分岐点から新しく何かを見つけることだってある、らしい。
「……」
一人暮らしの同僚の家、のとある閉鎖空間。
わたしはひとり、顔を覆って項垂れていた。
最悪。無意識に出た言葉。まさかこのタイミングで。
ただ、ここにいても状況が打破出来ないのも知っている。どうにもならないことを嘆いていてもどうにもならない、のだ。
とりあえず今ここで出来ることをして、一息つく。やることは決まっている。
扉を開けて、真っ直ぐ居間に向かう。革張りのソファーに、同僚で同級生の実弥ちゃん(ちゃん付けしているけど男性)がビールを飲みながら寛いでいたけれど、出てきたわたしの姿を見て目を丸くする。
「……は?」
何してんのお前、と声をかけられた。
実弥ちゃんが何を言うかは分かってる。分かってるけど、今は細かに語ってる余裕は無い。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「は?え?何しに」
「買い物」
自分のカバンの中から財布を取り出す。顔を上げると同時に実弥ちゃんに手首を握られ、静止を求められた。
「買い物ってお前、何買いに行くんだよ」
「買い物は買い物」
「答えになってねェ」
そりゃそうだと心の中で思いつつ、彼に買いに行きたい物を口にするのを躊躇う理由だってあるわけで。
何をどう言おうかと迷っていると、実弥ちゃんが先に口を開いた。
「……欲しい物なら俺が買いに行くから、風呂入ってろ」
「いや……それは、嬉しいんだけど」
別にやましいことではないし、仕方のないことなのだけれど、どうしても言い難い。
恥ずかしいとか、後ろめたいとか、そういうものでもないのだけれど、やっぱり憚られてしまう。それはきっと、実弥ちゃんじゃなくてもそうだ。
言えなくて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「……多分、実弥ちゃんに迷惑かけちゃうから」
「はァ?お前、何言って、……」
言葉が途切れる。実弥ちゃんに目線を向けると、気付いてしまって困ったような、そんな顔をしていた。空気を変えようと明るく「すぐ帰ってくるから!」と声をかけるけど、実弥ちゃんの表情は変わらなかった。何やってんだと俯く。
「……気遣わせちゃって、ごめん」
「いや、んなの気にすんなァ。それより大丈夫か?」
その大丈夫、には様々な意味が含まれているのだろう。大丈夫と一言伝え、小走りで玄関に向かった。
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予想外の出費にショックを受けている場合じゃない。まさか、このタイミングで来るとは思わなかった。きちんとアプリで管理しているのと、周期が乱れたことがなかったので、完全に油断してた。
コンビニの帰り道、曇り空を見上げながら考える。多分遅寝早起きが続いたり、補習と部活の引率でろくに土日休めなかったり、と生活リズムが乱れていたのが原因だろう。
下腹部が重い。いつものことで、もう何年も付き合っているはずなのに、きっとこれからも慣れないんだろうなあ。自然とため息が出た。
実弥ちゃんの家に着く。中に入ると、実弥ちゃんが歯磨きしながらお湯を沸かしていた。
「悪ィ、紅茶しかねェわ」
「あ、ありがとう」
「風呂入るか?」
「ううん、シャワーだけ借りてもいい?」
おう。家主の許可が降りたので、遠慮なくお風呂場に向かう。用意してもらったお湯の湯気を肌に感じて、申し訳なくなった。
簡単に湯浴みする。お風呂から上がると、裏起毛のスウェットが上下用意されていた。遠慮なく身に纏う。
身支度を済ませて居間に戻る。実弥ちゃんにお礼の言葉を言うと、本日2回目の「大丈夫か?」が返ってきた。過ぎた思いやりに、つい、 吹き出してしまう。
「そんなに心配しなくても大丈夫」
「いやまあ、そう……だよな」
そうなんだけどよ、と口ごもる実弥ちゃん。
「うちの女連中、結構重い方らしいから。どうしても気にするんだよ。気にするっつーか、気になる」
「え、そうなの?」
「そうらしい。俺はよく分かんねェけど」
それはそう。
ソファーに座り、用意されていた紅茶を一口啜る。林檎のほのかな香りが鼻をくすぐった。慣れない心配りに自然と笑みがこぼれる。と同時に、生まれる罪悪感。
「ホントごめん」
「何が?」
「今日出来ないじゃん。なのに泊めてもらっちゃって」
「……そんなの、気にすんな」
気にすんな。と言われても、気にしないことなんて出来るわけない。わたし達は友達以上恋人未満で、週末だけ身体で繋がるだけ。そういう関係なので、何もない夜を知らない。そんな夜があっていいのだろうか。せめて手か口で、と提案したけどすぐに却下された。
「しなくていい」
「でも、」
「いいから、もう寝るぞ」
ぐいっと手を引っ張られ、そのまま寝室に誘導され、あれよあれよといううちにベッドに寝かされ、布団を掛けられた。
「いやいやいや、展開が早くない!?」
「別に早くねェだろォ。日跨いでるし」
居間の電気を消してきた実弥ちゃんが、するりとベッドに潜り込んでくる。
「ほんとにいいの?」
「いいって言ってんだろうが」
「……ほんとに?」
「嘘ついてどうすんだ」
同じ質問の繰り返しに呆れたように言うと実弥ちゃんはわたしの身体を強引に逆方向に向かせる。何事かと思った時、わたしの横腹を実弥ちゃんの大きな手がすり抜けていって、そのまま下腹部に優しくあてがわれた。
「暖めた方が楽になるんだっけか」
耳元でわたしの身体を労る低い声。服越しに伝わる体温がじわじわと広がって心地よい。鈍い痛みが不思議と和らいでいく気がする。
「そう言うよね。夏場だけどカイロ持ってる子とかいたなあ」
「大変だな」
「わたしは軽い方だと思うけど。実弥ちゃんの家族は重いんだっけ」
「あー。おふくろも妹も、1日目?は仕事休んだり学校遅刻して行ったりしてるな。ずっと横になってるわァ」
「そうなんだ……」
柔らかな温もりが身体中に巡り、眠気を誘う。 スイッチが切れる前に、もう一度謝った。
「なんで謝るんだよ」
「だって、したかったでしょ」
「そりゃしたかったけどよ、仕方ねェだろ。いつ来るかなんて分かんねェもん」
「体調管理も出来ないなんて未熟……」
「だーから、気にすんなって」
辟易した言葉とは裏腹に肩まで布団を掛けられ、冷えないようにとくっつかれる。そこに強引さはなく、壊れ物を扱うような丁寧さを感じて、なんだかくすぐったい。
「……実弥ちゃんの手、あったかい」
「そりゃよかった」
「なんか、眠たくなってきた」
「ん、もう寝ろ」
「ぅん……」
意識を手放すまで早かった。実弥ちゃんの体温は相変わらず優しくて、一人で過ごす夜とは違って。
頑張って、ありがとうと呟いた。
***
女が寝静まったのを確認して、トイレに駆け込む。それから適当に半勃ちのモノを扱いて、溜まっていた欲を吐き出した。
長い溜息をつきながら、振り返る。しなくていい。そう言ったのは事実で、でもしたかった。そんな逃れられない男の性もあって。あの場でよく強引に押し倒して事を進めなかったとまずは自分を褒めるべきか。
アイツとは中学の時の同級生で、今同じ職場で働いていて、お互い固定の相手がいないから週末だけ酒飲んでする、それだけの関係で。それだけだから、何も無い夜があるなんて考えたこともなかった。
「……」
水を流す。ため息が一緒に吸い込まれて消えた。クソ、せめて手か口で抜いてもらえればよかったと一瞬思って、違うそうじゃないと脳内で前言撤回した。相手が大変な時に何考えてんだ、俺。なんとも浅ましい思考に嫌気がさす。きっと、不埒な関係でもそんな夜があってもいいだろう。今回は不可抗力で、どうにもならなかったことなんだから。
そっと寝室に戻り、ベッドを揺らさないように元いた位置に身体を収める。再び下腹部に手を添え密着すると、女の髪から俺が使っているものじゃない洗髪剤の香りがして、息が詰まった。
「(ぅ、ま、マジか)」
少しだけ顔を背け、容赦なく襲ってくる情欲になんとか耐える。このままじゃまた暴走しそうなので、目を閉じて自分が担当してる科目のことを考えることにした。来週から理系クラスの授業でちょっとややこしい単元に入ることを思い出す。どう授業を進めていこうか、そんなことを粛々と考えてるうちに、いつの間にか自分の高校時代を振り返っていた。
理数科目が得意で、高3のクラス選択でも理系クラス一択だった。そこで教えを受けた数学の先生が(いい意味で)頭がおかしくて、それでもすごく分かりやすい授業をしてくれた。数学の世界はいつだってシンプルで美しい、がその先生の口癖で、そのくせテストは全然シンプルでも美しくもなく、生徒からの評判は最悪だった。
その先生から「不死川。お前、学校の先生になれ」って言われたのが、今の俺に繋がってる。当時は先公なんて誰がなるかと返したけど、教育の世界に身を投じて、肌に合ってるなとしみじみ感じる毎日だ。充実してる、と言ってもいいかもしれない。
……そう言えば中学の時、コイツの友達から数学教えてと言われたことがあるような。詳細は忘れたけど。コイツの友達より、俺はコイツのことが好きだった。好きで好きで堪らなかった。その気持ちを打ち明けることはなかったけど。まさか同じ職場になるなんて。そう言う意味で高校の先生に感謝だ。
ただ、交わってる時に膨れ上がってくるこの気持ちが好き、かどうかは分からなかった。付き合う?今更?仮に付き合って、今の適当な距離が壊れるのは嫌だった。家族との時間が減るかもしれない。
お互いに都合がいいじゃんと利用され利用して始まった俺達。いつかこの関係が終わる時が来るとして、その時俺とコイツはどんな選択をするのだろう。
「……」
目を開ける。夜の空気に、無防備に晒されているうなじが視界に入ったので、そっと唇を当ててみる。当たり前だが、反応はない。
寝てしまおう。すぱっと割り切ることにした。つーかコイツが起きたとしてどうせ何も出来ねぇし。
もう一度目を閉じた、その時。女ががばりと起き上がる気配がして、反射的に目を開けた。
「……どうした?」
起こしてしまったか?と焦ったが、女は一言「トイレ」とだけ言い、ベッドを降りる。ペタペタと歩く音を聞きながら、ほっと胸をなでおろした。
ややあって女が帰ってくる。ベッドに手を付き、四つん這いになりながら元の位置につくと、乱暴にベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫か?」
うーん、と唸り声にも似た返事。女の下でくちゃくちゃになっている布団を引っ張り出しながら女に掛けてやる。
「腹痛ェか?」
「いたい……」
「……薬飲んだ方がいいんじゃねェの」
「今日来ると思わなくて持ってきてないんだよね……」
体を丸めて痛みに耐える女。生理痛に効くかどうかは分からねェが、頭痛薬ならあった気がする。テーブルランプを点けて、ベッドから滑り降りた。
「実弥ちゃん?」
怪訝そうに俺を見つめる女に、頭痛薬があるからちょっと見てくると伝える。女の返事を待たずに居間へ向かい、薬が入ってる棚を開け、頭痛薬の箱を寝室に持って来て明かりで効能を確認する。頭痛、解熱の隣に月経痛と書いてあったので、薬を箱から取り出した。
「この薬生理痛にも効くらしいぞ」
「えっ、ホント?」
女は怠そうに上体を起こし、薬を受け取ると開封し、そのまま口に放り投げた。
……え?
「おい、水!」
「あっ」
何やってんだバカ。慌てて台所から水を汲んでくる。水と一緒に薬を飲んだ女は、ごめんと苦笑いした。
「今日、実弥ちゃんに迷惑かけてばっかり」
「気にすんな」
このやり取りも、もう何回目だろう。目を伏せる女を見て、そう言えばこんな風に萎れるコイツを見るのは初めてかもしれない。よっぽど負い目を感じているのか。だったら気にすんな、より、冗談交じりの言葉の方が気が紛れるかもしれないと思って、口を開く。
「……今度、思いっきりご奉仕してもらおうかねェ」
その言葉に、女はハッとした表情になる。それから「じゃあ実弥ちゃんのためにメイド服買って来なきゃね」と、口元に笑みを浮かべて言った。
夜の片隅で新発見
「ご奉仕でメイド服って安直過ぎねェ?」
「そう?ナース服がいいとか、リクエストがあれば合わせるけど」
「……考えとくわァ」